ÜNDYizm

Under renewal...

「人というかたちをした愛」はあるのか

先日、「犬というかたちをした愛」について、糸井重里氏(以下、ダーリン)の愛犬ブイヨンが亡くなってからのこと、ダーリンの日記でブイヨンとの日々を振り返る言葉を読むと、瀕死ながら寿命長らえ静かに生きる我家の犬の「その時」を思って読めなくなる、と記した。

でも日々そんな感傷すら余計な労力と言わんばかりに、ヘルニアわん子は失禁するし、食欲はあって食事の時間に首をあげてわうわうと吠える。今日も生きた。その更新でしかない日々を、生きている。

 

さて、では「猫というかたちをした愛」について考えようと思った。

犬派ですか?猫派ですか?という質問は自分には困った質問で、

爬虫類派ですか?両生類派ですか?と聞かれるくらい粗野である。

要するに、どちらも変わらないし、どちらも同じくらい好きだから。

 

さて、では・・「人というかたちをした愛」について、

人らしく考えてみようと思う出来事が、つい1時間前にあった。

長女が珍しく、LINEで長電話しており夜遅いので、時計の身振りで注意した。そうしたら、同じクラスになった転校生と話していた様子で、相談事を聞いていたとのこと。

親が離婚し、母と妹と離され、住み慣れた町を出て自分は父親に引き取られて転校して来たらしい。...

 

...あぁ、まただと思った。

3組に1組が離婚するという時代である。

漏れなく我家も離婚組であり、親として不憫ないようにと思ってもそれはハリボテで叶わず、日々小さなことで不安と不満を蓄積していく親の離婚に翻弄される子供たち。離婚の原因は様々なので、我家に於いては離婚した方が、良かった。しかし経済的に重きを置いた時、それは必ずしもそうではない日々があるので、親の離婚に正当性も言い訳も子供の前には通用しなくただ、すまないという日々で今もいる。この備忘録で、離婚した元夫を責める言葉は、書かなかったと思う。離婚というものは大人の喧嘩両成敗で、私も十分に非があった故に、時間を経てもそれを埋める努力も放棄したままである。親として、とある前に自分を守らなければならなかった。

 

両親の離婚で育つ子供たちは、防空壕のようなコミュニティーを無意識で構築している、というのを長男の成長期・思春期を見守り、長女で改めて確信している。次女は特に難しいことが多く、中年の男性先生が次女の背後から覆うようにして百葉箱を開けようとした時に次女は思わず肘鉄をして逃げたという。先生にとってはスキンシップだったのだろうが、次女には成立しない。事情を知っている担任の先生が、様子を察してくれて事なきを得ている。

 

「限りなく離婚に近いが離婚しなかった親」に育った子も、同じと言える。

「面前DV」という言葉は近年知った。子に直接手が上がらなくても、見せる事が子に与える心理的虐待である。潜在的にこのような状況に置かれる子供もまた、多いのではないかと思う。

 

「人というかたちをした愛」に戻って考える。

究極の考えは、親であろうが、子であろうが、恋人であろうが、妻・夫であろうが、「自分から見た他人」であることを忘れて自分の思い通りに懐柔しようと、あるいは自分を忘れて懐柔されるから、愛について考える時、動物より人間は劣るのだと思う。

 

f:id:undy-yuu:20180421000955j:image


前提にして、自分以外の人間は他人である。先ず自分が自立してこそ成り立つ他人との自立した関係性、足りない補充を愛情で補おうとするから、自分勝手な期待を互いに押し付けるのは動物史上「人」だけだよな。他人というと冷淡な表現もあるがそこには、前提にして相手を尊重して干渉しない理解が横たわっている。心地良い。

 

人は思った以上に、厄介で手がかかる。

犬や猫の方が、賢いと思ったり。

 

ねぇブイヨン、

ダーリンの愛犬ブイヨンは、

皆のブイちゃんになって写真になって、

人々の癒しとなって記憶に残っていくよね、きっと。

www.1101.com

 

ねぇブイヨン、ありがとう。

ヘルニアわん子のお母さん、頑張ります。

頑張らなくても良いんだっけね。

ブイヨンからのおれい展には行けないけれど、

そのような事を思っています。

 

 

で、結局「人というかたちをした愛」については、動物のように素直に、相手を他人として思いやり持てよということ。前提として、自立しろよということだ。甘えよう、甘えたいという無条件な愛が許されるのは、やはり、犬猫であるなと思うんだよ。

 

でも人というのは弱いから、

犬や猫たちに癒されたくて。

お世話しながら、

甘えてもらいながら、甘えてるんだね。

 

日々概ね平和を、ありがとう。