ÜNDYizm

Under renewal...

「犬というかたちをした愛」について

・夜中に音楽を流しながら原稿を書く。
 今夜も、そうしている。
 書くことは決まっていないのだけれど、
 今日からの『ブイヨンからのおれい』のことを、
 なんとか書いてみたいなぁとは思っている。
 それなりに大きな音量で歌や演奏が聞こえている。
 これは、いままでなかったことだったと気づく。
 これまで、ぼくは犬のいる居間で仕事をしていたので、
 寝ようとしている犬に迷惑になるからと、
 音楽のボリュームをしぼって流していたのだった。
 犬にうるさいと文句を言われたおぼえもないのだけれど、
 ぼくの自己満足として、音を小さくしていた。

 そうだね、ブイヨンがいないおかげで、
 ぼくはまたすこし自由になったのだよ。
 あんまりうれしくもない自由を得た。
 そういうこともあるものだと知る。

・昨夜、写真展の準備をしている「TOBICHI」に行ったら、
 もうすっかりはじまりの雰囲気ができていた。
 「死」というものをはさんだサンドイッチではあるので、
 にぎやかさが抑えられていて、空間が静かだった。
 そこはかとなくユーモラスな印象があるのは、
 あの犬の性質のおかげだな。
 なんだか、おもしろい犬だったものな。

 いい写真を撮ろうと思っていたわけでもないのに、
 たくさんの写真を人に見せることになっていた。
 こんどは「写真展」なんてことも言っちゃってさ。
 人間のぼくの理想は「お通夜のにぎやかな人」だけど、
 この「ブイヨンからのおれい」も、
 来てくれた人にたのしんでもらえるといいな。

・ずっと言ってることだけど、
 「犬というものの正体は、犬というかたちをした愛」
 であるという思いを強くしています。
 もともとの、目に見えるかたちでなくなったブイヨンは、
 まだちゃんと「愛」としてぼくらのそばにいます。
 亡くなって、「愛」が無くなったのではなく、
 見えないかたちの「愛」になったのだとわかりました。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ときどき、行ける時間には、ぼくも顔を出すつもりです。

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実はこのツイートの時も、暫くはブイヨンの話題に触れていたので、気がつけばダーリンの日記を読めなくなって、遠のいていた自分がいたのだ。怖かったのかもしれない。覚悟していたのに、「死」というものと近くでヘルニアわん子は日々生きているので、悲しみたくなくて伏せたのだ。忙しかったのは言い訳で。しかし時は確実に進めていて、ブイヨン主催のお礼展が、今日から始まっている。その後のブイヨンとの時間も、ダーリンも、流れ進んでいるのに。

 

 そうだね、ブイヨンがいないおかげで、
 ぼくはまたすこし自由になったのだよ。
 あんまりうれしくもない自由を得た。
 そういうこともあるものだと知る。

 

このことについて、考える。

一ヶ月前に瀕死だったヘルニアで歩けないダックス犬が、痩せて骨と皮だけになりながら首をあげてわうわうと吠えて、甘えて、主張して、留守にすると寂しくて失禁する。撫でるとき、それだけが幸せ全てに浸っているかのように、目を潤ませて細める。

 

一時の保護のつもりが、この春で3年になる。

獣医には、生きていることすら奇跡な状態と言われた。もうそう長くないのなら、と保護して食事と排泄の介護をする日々、が3年である。

この不便なヘルニアわん子に不便さから教わる忍耐こそが「愛」ということや、これから失うことで見えることが怖いのだが、もう我ら家族の生活の一部となって、この子は生きている。お世話は、すごく大変。でも、痩せたアバラがスコスコと呼吸で波打ちながら、静かに眠る寝顔を眺めている時、この子に魂があることと、死の境界線を見る。愛とかそういう言葉にならないもので形容される、忠実を考える。猫は自由だが、犬は誠に飼い主へ忠実なのだよ。真っ直ぐな瞳、裏切らぬように主はあらねばと。愛、きちんと注げているのかな...多分、足りない。愛し尽くすって、そう簡単なことじゃできない。

 

...ブイヨン主催の『ブイヨンからのお礼展』には行けません...。

東京住みは良いなぁと、ほぼ日のイベントを指をくわえてモニタ眺めています。でもわかってる。そこへ行くことが重要ではないことを。日々の生活から、与えられている些細が集合体となって私を成している生活全てを、愛したいのだから、行けなくてもいい。

 

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(やせ細って行く姿が不憫で、最近写真は撮ってません)

 

思い馳せつつ、

自分にしかできないことを、やる。