知は血肉に
読了しました。
大前提で、試験の為の勉強と、知識を積む為の独学とは全く別でした。本書を読んで、この大前提について子供の頃から知っていたならば...何と膨大に無駄で無知な時間を放り投げたのかと思えました。数学嫌い、地理が嫌い、科学が嫌い、英語が苦手(要するに、美術以外は全てダメダメだったのだが)全ての勉学はこの独学に通じており、通過点に過ぎなかったのに。
日本は仏教が大本ですが「無宗教派」「無神論者」に近しい人は多く(かくいう自分も、そうで...)それで自身が興味のある書籍を読み調べ、教養を探求していた「つもり」になっていた。哲学はとっつきにくくて難解だと思っていた。
大前提で、世界は「聖書」から成っている。
この事実と現象に、目を背けてはいけない。
何もキリスト教やカルトに目覚めたという話ではない。世界の多くは(正確には、世界に占める人口の多くが)この「聖書」を基礎に成り立っている。ダ・ヴィンチを尊敬して、ピカソを敬愛しようが、それを知らずして、歴史的背景と共に哲学や古文を知ることもできないし、外国語習得にもならない。日常用語や小説の類は、著者のオリジナルが粉瘤されたもので正しい基準ではない。広く浅くても良いので眺めるように、俯瞰して書籍での経験を積むことは、セミナーや体験でいっとき習得したものより確実で裏切らない。
昨日話した読書週間の始まりが誕生日の兄貴は、学生の時に「聖書」も「新約聖書」も読んでいるのを知っている。世界創造の基を探求した兄貴が、農夫として天気に失敗しない農作物を作り上げている。これは、高貴なことだと思えた。
安泰した職業を求めた学歴の通過点としての試験は、日本社会では逃げる事は出来ないのだが。現役で学生をしている子供達へは、試験のための人生通過点としての勉強と、知識探求してよりよく生きるための独学と、二種類あることを教え、また自分もその姿勢で有り続けようと思えました。
この歳、だけどこれからの自分の人生で、
今の自分は一番若輩なのだから。
妹と母が「私が絶対好きだろう」と一目惚れしたマグカップが今朝届きました。
猫を保護して飼い始めた当時、メス猫が妊娠していて出産し一気に仔猫5匹増え、無計画だと猛反対されたのですが...3匹を里親に送り、今この猫の在る生活を認めて、母子家庭で慎ましく生きることを応援してくれている。
そう思えた。
だから自分は、
兄の妹として、
妹の姉として、
両親の娘として、
子供達の親として、
向上し続けなければならない。
という記録です。探求して生きるには与えられた時間ってすごく足りない、と思えたところからのスタート。