一程度は妥当であれ
本日は今週打ち合わせた中で、
「成る程だなぁ」と唸った言葉を備忘録しておきます。
何でも、何とかしようとして全力を出しすぎないこと。
適当であるようでいて、悩んでも無利益ですぐ結果の出ないこと、或いは全てを聞いて受け止めることで心も時間も要する事であれば、一程度初めから突き放すこと。
それで得られることは、
仕事や勉強に捧げる集中度の確保。
大切な人へ素直な感情と言葉など。
...ただこちら、人や仕事が相手ならそれは大変に失礼になるので、聞きながら聞き流す、というハイスペックな技量が必要では?と思う訳です。対相手、顔見て話したり、特に話してくれることは溢したくないと思う性分であって。
でもね、キャパ狭いですから。
疲れることもあります。
心配しすぎて心臓が痛い最近...
適当に流すことも一程度必要。
その言葉を教えてくれたのは、農学博士であり大学の教授です。
研究を日々続けることは、生き物を相手にしているので「継続」どのような時も待った無しの方なのです。殊更、成る程だなぁーと思ったのです。
何でも誠心誠意込めて、もちろんダイジ。
だけど、埃のように見えない「集中度を下げる事柄」はチリも積もればの掃除に同じ。最近、適当掃除を敢行してます。「どこもかしこも、キレイでいたい」と思うと隙間時間の掃除が億劫で、結果半日、掃除に追われるみたいな。
それ勿体無いので。掃除の結果は好きだけど、過程はそんなに好きじゃない。
要領よく、という心の整頓もチャレンジしたい。
で自分は、どうありたいのか?
ということを考える暇も今はない状態です。考え過ぎずに都度判断したことの方が自我が邪魔せず悩む時間も生じないような体感です。
学ばなきゃ、メモしなきゃ、という衝動もさておき、今想像する限り一番自分がこれだ!と思うものに今は流されていたい。
適当じゃない、
正当ではない、
妥当であればいいや。という心意気。
でもまたうだうだ考えるね。
でも今日、今どうしても観たい映画は観た。
やればできるじゃん。