教えのむずかしさ
夕飯の時の会話でのこと。
「〇〇ちゃん(同じクラスの子)は、テストで100点とれたら100円もらえるんだって。だから、テストの時いつもカンニングしてる。100点とるためにって。」
「あと〇〇くんは、お風呂掃除手伝ったら1,000円もらえるって言ってる。」
え?なんですのその教育方針...(絶句)
100円でも1,000円でも額面の大小の問題ではなくて、「当たり前にして取り組むこと」に対してご褒美制度にしていたら、頑張る理由がお金になってしまうよね?家庭それぞれの育て方があってどうこう物申すのも好きではないが、残念だがその考えは違う。勉強は、自分の将来のため。お手伝いは、家族として生活を共にする支え合いとして。もちろん、娘たちはわかっていたけれどね。
「人としてしてはダメなこと」を制止した次女のちょっと前の事件を振り返り、
如何ともしがたい気持ちになるのだ。人の筆箱を漁って平気でものを借りて、返さない子とか。スマホを学校に持って来ちゃう子とか。学校の教育以前に、家庭で教えるべきことがどうなっているんだろうと首をかしげることは、少なくないんだよね。
写真は先週の参観日のこと。
この時の、ママたちの雑談話し声がうるさくて...。子供達、真剣に授業聞いているのに。ガムをずっと噛んでいるママとかも、授業中はガム食べたらダメなの子供だって守っていること。参観している親が良いなんて解釈はない、めちゃ不快感。
でも注意はためらった。
娘たちが次はターゲットになるから。
気をとりなおして。
参観内容は縦学年で取り組んでいる12月は「命の教育」がテーマ。4年生は「命のはじまり」について。実はこの時もう、次女はクラス女子の中で一足先に月経が始まっていた。(お姉ちゃんより早く^^;)性教育は段階ごとに言葉を選んで教えているのだが、想像以上に次女の身体が心より先に成長してしまって、「命がどこから来るのか」という教えが間に合わない状態。
伝えたい時の、伝えるべき時のむずかしさ。
自分こそは正しい育てとは思えないけれど、
「不道徳だよ」ってことは曲げたくないな。
「大丈夫だよ」って自信を持ってほしい、それだけ。
次女の担任は、油絵も嗜む芸術肌のお方で、経験も豊富で教えも上手で、教室はいつも先生が書く「言葉」が天井から大きな短冊のように吊るされている。図工の取り組みでの観察眼、教科の隔たりを無くした「同じテーマで考えること」などは学ぶことが楽しくなる仕組み。非常に、日々、ありがたい。
長女の参観日は、残念ながらインフルエンザ真っ最中につきお休み^^;
長女の担任の先生も、非常に熱心でユーモアで、子供達も保護者にも人気がある。授業は本当に工夫されていて楽しい。感謝です、先生。
来春から、道徳の授業が復活します。
「脱・ゆとり教育世代」の始まりに長男が、長女は英語の必修化スタートと重なり、次女は道徳教育が復活する。教育現場の取り組み結果は、数年から数十年経たなければ結果が見えないのだが、それは子育てに於いても全く同じだよなと思う。
いかにして教えるべきか。
親自身、いかに学ぶべきか。
伝える適したタイミングも...
本来こんな他人をどうこう、揶揄するような言葉を残すのは心が痛いのだが、やっぱり違うよなと思った夕食の会話から。
だって、傘の柄が気に入らないからワザと壊して投げて、次の日新しい傘を買ってきて貰ってたって...(テストで100点とったら100円の子)それは...、何もかもが滅茶苦茶すぎる。