不道徳でごめん。
昨夜の、夕飯時に娘たちとした会話。
夏休みの予定について、話していた。
今年は犬猫のお世話が増えているし友達と遊びたい、という長女の希望も。実家である田舎に帰省はいつにしようかと。
お盆の話になり、お墓参りの話になり、自然な流れで「死後どうするか」という話になった。今だ、と思った。自然な流れで、伝えたかった。「お母さんは、死んだ後は骨壷に閉じ込められたくない。もうその辺の山や海でいいから、骨を撒いてくんないかな。土に還れたら本望だから。」
長女「山と海だったら、どっちがいい?」
私「うーん。どっかその辺でいいんだけど、海だったら、あちこち散って旅できるからいいよね。」
次女「お母さんの前世は、海に縁があるんだもんね!」
私「そうそう、どの辺の海でもいいから、適当に撒いてくれればいいから。」
そのような会話を、していた。
改めて文字に起こすと妙な会話である。
不道徳だと反意もあるかもしれない。
でもこれは、元気な時だから出来る会話だ。遺書に認めることでもない。悩むような大事なこと、避妊のこと、中絶や出産のこと、体の変化のこと(老いや病気のこと)、結婚を継続する難しさ、貯金やお金の使い方、食うのに困らない仕事(知識と手に職)をもつこと、などを日常の会話に織り交ぜて伝えるように心がけている。そして、万が一自分が延命措置が必要な事態になったら延命治療はしないでくれ、と言うことも伝えてある。相手が子供だから理解できない、とは思わない。生きることと、自立するために準備することは同じだと思っている。仰々しく伝えなくていい。食事の片手間の会話で良いのだよ。長男には、冗談ぽく言ってある「老後ボケたら、さっさと施設入れていいから。仲間いて楽しそうだし。」
ここのところ、長男は連日アルバイトで(人手不足で)心配ながら、娘たちと昨夜、そのような話をしていたんだよ。
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なぜ今こんな備忘録って。
今日は(いつも観ないけれど)いつもに増してテレビは観ない日とする。ワイドショーが大嫌いだ。まだ幼い子がいるんだから、そっとしておいてほしいと思うのに、世論が求める情報はそうではないようだ。需要があって、情報供給がある。でも、愛する伴侶を亡くした日ぐらい、そっとしてあげればいいのに、と思う。情報開示する必要がある職であるかどうかは、関係がないと思う。訃報のニュースを見て、あっ、と思った。あっ、と思った自分が嫌だった。
生きる条件は、皆同じだもの。
心が痛い理由だって同じだよ。
昨日の娘と交わした会話を思い出しながら、何年先か何十年先かわからないけれど、娘に伝えることは成長とともに更新しながらも、何気無い昨日の会話を留めて欲しいと思った。
不道徳でもいいから、思い出した時に天に向かって手を合わせてくれればいい。奔放に生きる自分はお彼岸に現世を訪ねることはない。死後は自由に散り散りになりたいと思っているが、本来人は祖先や家族を敬う場が必要で、墓なり、寺院なりで供養することが重要ってことくらいは理解している。
祖父の葬儀での法話は心に留めてある。
「有難う」とは、
生きていることこそが奇跡であり、
短い人生という中で出逢う人との、
関わりそのものが奇跡であること。
「有ることが、難しい」ことに感謝せよ。
おっと!
仕事の電話がきたね。
現実に戻ってお仕事、打合せ行って来るわ。
麗しき現実の生きる柵(しがら)み、
楽しきことかな。