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こどもの日に思う

ゴールデンウィークが、いつから、家族と旅行やお出かけイベントの代用句的な扱いになったか知らない。何せ農家の娘で育った自分は、5月は両親の農作業が一番忙しい季節であった。ビニルハウスの温度管理が繊細で風向き変わってはビニルハウスの開け閉めに走ったものだ。周りも農家なので、ゴールデンウイークは家の中も外も、子供も総出で手伝ったものだった。そういうものだった。

 

ゴールデンウイークくらい家族サービスをしたい、その時ばかりは親に甘えたいという親子が楽しむために、ゴールデンウイークは恩恵としてあるのかな。

 

思い出す本がある。キョーレツな言葉でその本には答えが書いてある。


【第4章:家族について】

「家族旅行は行かなきゃいけないの?」より引用

 

 農業社会だった日本では、家族総出で田植えや稲刈りをしなければ、収入が得られなかった。赤ちゃんも田んぼに連れて行かれたし、子どもも忙しい時には学校を休んで親の仕事を手伝った。農家は家業であり、「職業」の単位と「家族」は一致していて、子どもたちは「みんないっしょ」家族の中で仕事を覚えた。

 家の中の囲炉裏に火を焚いて、家族みんなで朝晩のご飯を食べるのも当たり前だった。ここでも「家族」の単位と「食事」は一致しているから、「職」でも「食」でも、みんなが「家族はひとつ」という感覚を味わえたわけだ。

 ところが、工業化が進み、会社で働くサラリーマンが増えてくると事情が異なってくる。子どもは学校へ、親は会社へと行き先が分かれるから、仕事のイメージがまるで伝わらない。自営業者は別として、家の中で仕事の技術を伝承する機会もなくなってくる。

 さらに、電子レンジやコンビニの登場で、家族がいっしょに食べなくてもいい環境が整備されてしまったから、一人ひとり食べる場所も時間も違う「個食(孤食?)」が可能になった。

 

 このように「職」と「食」とが家族いっしょの時間から分離されてしまうことで、「家族はひとつ」を実感する機会が圧倒的に減ってきた。

 

 情報化がこれに追い討ちをかける。

 子どもたちが個室を持ち、外部とケータイでつながってしまえば、家はホテルのようなもの。じっさい日本の家庭では、家族がリビング(居間)に滞在して団欒する時間(昔であれば囲炉裏端に集まった時間)が極端に少ないことが検証されている。

 

 (中略)

 

 それでも家族を維持しようとするには、あの手この手の努力が必要だ。

 

 (中略)

 

 つまり、結婚して子どもができれば自動的に家族に「なる」時代が終わり、家族であるためには、「家族する」という動詞で語らなければならない時代になったということ。

 家族する「決意」が大事になってきたということだ。

 

 (中略)

 

「結婚して家族する」のは難しい。

でもしょせん、しなくてもいいかもしれない結婚を、あえてして、あえて家族旅行もして、家族する。

 

 その決断がキミを大人に近づけるのだ、と信じている。

 

子どもに語りかける口語体を混ぜつつ、子どもが納得できることは大人にだって逃げようのない思考の到着点にたどり着く。

 

ゴールデンウィークの混んだ時に、折角の休みを「家族する」ことで疲れの蓄積を行い、思い出というものを重ねるのならば。「家族する」という言葉は愛おしいものだ。自分は不完全ながらも「母親する」ことを自分で褒めたいし、子どもたちが私の「子供をする」限られたこの時を、日常から大切にしたいと思った。

 

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日常キリトリ#平和な2匹 より