先月12日メモ残した「ほぼ日」ダーリンの言葉。
じぶんのやっていることを、
なんでも肯定してもらえると思うのはまちがいです。
同時に、絶えず否定されることについて怖れながら、
考えたり言ったりするというのもちがうでしょう。
だれでもが、その両極の間のところにいるはずです。
沈黙は金というのは、きっとほんとうです。
価値あることは、ことばのなかには少ししかなくて、
なにを、どうしてきたかのなかにあります。
しかも、そのことについて、
ほんとうに知っているのは本人だけだったりもします。
ぼく自身が、毎日語りすぎることに疲れているのかも、
休んだら止まる、ということを怖がっているのかなぁ。
今日のを置いておきます。
<けっこう弱い人間が、次々になにかすることによって、
すこしずつ大人になっていく、そういうものだ。
なにもしなかったら、「けっこう弱い」はずっと続く。>
この、昨日書いたものの続きが書きたくなった。
たいていの二十歳は、「けっこう弱い」。
たった20年しか生きてないのだし、
じぶんからなにかを生み出すこともないのだから、
強くなる経験をしていないのだとも言える。(中略)
じぶんからなにかを生み出す、だとか、
強くなる経験だとかって、どういうことなのだろう。(中略)
いさかいごとに巻き込まれたり、それを仲裁することや、
人に悪いことや卑怯なことをしてしまったことも、
傷を負うかもしれないけれど、経験になっていく。
思いがけないひどいことをされても、経験になる。
見苦しいほどの恋愛も、失恋も、もちろん経験になる。
結婚をすることも、それを続けることも経験だし、
別れてしまうことも経験として重なっていく。
こどもを生むこと、育てることも、当然経験だ。
人と真剣に関わることは、すべてが強くなる経験だろう。
「どうだ!」と自慢するようなことではないし、
強くなることは人生の目的でもないのだけれど、
強くなるほうが、じぶんにも人にも機会を増やせるかな。
と、そのくらいのことなのかもしれないけどねー。
裏切りなのが不誠実なのかそれが常識なのか、
ただただナメられているだけなのか。
あの時の評価や感謝の言葉って何だったのだろうと。
先方にとっては小さな事な取るに足らない事も、
...これ以上は書けませんが。
...あぁまたかと唸っても今度は声も出ない。
アウトプットする人格をどうしたものか、と最近迷う。
母として、一個人として残す備忘録としては、
いま自分は一つの立場じゃなくなってしまい、
最近、取るに足らない備忘録すら残せないような日々で責任で。
ちょっと、アウトプット休みます。
「強くなることは人生の目的なんかじゃない」
「でも強くなる方が、自分にも人にも機会を増やせる」
...そうだねー。
くっそ、と思うのです。
自分にもね。
ただひとつ確かなのは、
このままじゃ諦めない。
ということと、
今の気持ちを大切に温めよう、ということ。
好きな言葉を置いていく、
しばらくはそれが精一杯かもしれません。
意気揚々と結果を語れるようになりたい、
それいつ?