神よ仏よ
8月12日の哲学:
「人間は 自由の罪に処せられている」/J-P・サルトル『実存主義とは何か』
何でも選べると言う自由は、「選んだ後の責任は自分で取らないといけない」と言う責任と表裏一体だ。選んだ時点で責任は発生する。そして、その責任を全て自分で取らなければいけないのであれば、自由は気楽なものではなく、一種の「刑罰」とも言える。
今日の記述は、一年後大きな意味を持つはずで、
いや正確に言うと、意味を残さなければ駄目で...
仕事を通じてお会いした方より、闘病中であると話を受けた。
闘病していた、肺腺癌の祖父を思い出して脳内駆け巡っていた。病の前に戦う美論や精神論が通用しない現実を忘れていた自分を悔しく思った。
戦わなくて良いと言う選択は、出来ないものか。
頼む。神でも仏でも、先祖でも...
勝手な言い分だな言い訳だよな。
過去あれほどの悲しみや虚脱から学んだはずなのに。
身近で関わり好きな方は、笑顔で平穏な日々であって欲しいと思う絵空事では、運命の河を塞き止める力にはなれない。無力すぎてまた悔しい。今一度、日々を動かしてくれる自分の血肉と魂が在ることを大事にして生きることで、真面目に願うことで、病気に戦う力や言葉を磨かなければ...せめて、何も出来なくても...本当、嫌になるくらい無力なのだ自分は。
これから仕事で会うときに、自分から慰めは言わない言えない。
慰めの言葉では、一瞬の繕いにもならない。
笑顔に変わる言葉、言葉に変わる行動は何?
そこに集中していこうと思う。
過去自分も腫瘍か経過観察の影があり、そして癌家系であることは常に母から注意を受けていたのに。母も胸の腫瘍をとっており、婦人科系と肺は要注意。どこかでいま健康だからと、母の心配を置き去りに、無茶をしていないか? 自分だけの人生じゃない。
何でも選択出来る自由なんて、ない。
この哲学は大事なところが抜けている。
仮に、充てがわれた障壁の中で「より良い自由」と言う選択したとして、その罪を背負うのは一人じゃない。家族が、友が、その中にほんのひとすくいでも自分が居るよと、思う思考が現実になるべく。
いま血肉があって健康がまず横たわっているなら、
不満や文句を内外に思うなんて馬鹿げてる。
今日から生き方の軌道修正をします。
神よ仏よの願いは無理なの知ってる、
けれど、と足掻きたい。
という記録です。
来年の今日、奇跡が起きたって笑っていたい。