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竹田圭吾さんに質問

1月10日で、竹田圭吾さんが死去されてからまる2年が経つ。

(※以下敬称略で失礼いたします)

 

日本のジャーナリズムから竹田圭吾が去って、徐々に強くなる不満があった。

醸成され不安を煽る報道が増え、またそれが事実である国際社会問題と、日本経済や被災地復興問題など。政治も不安定、教育現場も不安定、誠に不気味な殺傷事件や人権侵害事件など...竹田圭吾がいたら、どうコメントしてくれただろう。そう思うことが、実に増えている。特には、トランプ政権になった辺りから強く思うようになった「竹田圭吾の意見を聞きたい」と言う叶わぬ思い。

 

「刺さるコメントより、染み込むコメントを」

そう言う竹田圭吾のブレない、人とは違う論点でのコメントは、昔から好きだった。なぜ好きだったのか向かい合いたく、情報氾濫な今にして枚挙に思うところ多く、初版当時は難しいな、と思った本書を改めて購入し、一気に読了した。

 

言葉のセンテンスが巧みで、まるで竹田圭吾が語りかけているような文章力であった。そして、コメントに致すまで膨大な情報に日々向きあっていたこと、情報を広く・全体的に捉える根気強い検証や方法をトライしていたことを、今更に知ったのである。

 

今、一番会いたい。

今、一番問いたい...。

 

日本は今、不寛容社会に入っている。人の人生を扱き下ろしてでも揶揄して興味本位に晒したい報道の類や、見聞きもしたくないが知らなければならない事実は、無視もできない。そして一々、悲観的になったり同情してもいられない、と言うストレス。

 

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昨年、海外発の「#MeToo」がSNS通じて、日本でもセクハラ被害の告発として発信され周知された件に関して。これら告発する女性に否定はしないが、懐疑的な思いが強く留意している。なぜなら、「#MeToo」によって同じ被害女性に勇気をもたらすことは事実かもしれないが、それによって傷を掘り返すのは当人ばかりではなく被害者の家族、加害者である家族と会社、地域や刑事問題に含めて、正義の代償は双方共にあまりにも大きすぎる。「被害者の勇気に」と言えば美論だが、周囲からの誹謗や心労と引き換えに正義の切符を手にすることが出来るかどうかは、結果無理だろうと言うのが私の持論だ。そう確信するのは、過去カウントすれば20年の歳月、自分自身も「#MeToo」で告発したい体験を幾つもして苦しんだ過去がある。それら報道を静観しながら、「#MeToo」による名指しでの告発は一生しないと決めている。失うものが、自分の家族に多すぎる。

 

竹田圭吾なら、どうコメントしていただろう。

 

本書でも触れていたような、タブーとされる「代案なき批判」「極端な悲観論」「未来すぎる提言」「物差しを定義づけてしまう原則論」の報道が、轟々と走っている日々で我々は、情報の何を、人の何を信じるべきか。自分をどう律するべきか。

 

まとめ。

自分が読むには難しすぎる哲学書、政治経済書、文豪書から言葉を砕いて、実践できる活用方法とする情報との向き合いかた、非常に分かりやすい。全ては難しくてもトライしてみようと思っている。

 

最後に、

常に客観的に状況に応じて人と違うコメントをしていた竹田圭吾が、カメラに向かって自分の言葉で、自分の発言したことがある。とくダネ!コーナー番組で「旦那さんに愛してるって言ってもらえていますか?」と言う街頭インタビュー。奥様方一様に「そんなん言われたことないわ〜」って想像通りの答え。VTRあけ、コメント求められた竹田圭吾は、おもむろに眼鏡を外して、カメラ目線で「いつもは、言えていないからではここで・・愛しているよ」と奥さんに向けてメッセージを言ったのです。

真っ直ぐな瞳で、堂々として素敵だったなぁ。

 

何度も読みたい本であり、竹田圭吾の「情報は集めるな」に基づけば、ワンテーマにつき3冊は本を読むのが読書の基本らしい。情報との付き合い方、整頓して発信すること(発信しないこと)を行動することの参考にしたいと思った。

 

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